あきよししまの人生記録

私の人生ややこしい。いろいろと煩わしい心の中、断ち切るすべを模索中。

I love you, buddy!

数日前にFacebookから飛び込んで来たニュース。その後、娘が電話をくれて、詳しく知らせてくれた。アメリカに居る私の甥っ子が頭痛で病院に行ったところ、脳動脈瘤が見つかり、しかもそれは複数で一つが破裂していたと。その状態で、救急車ではなく付き添いはいたものの自分で病院に行った事がすごいと思うが、緊急手術になって、今、ベッドの上で戦っている。私の息子と同じ年に生まれた甥っ子。まだ33歳。どうか、どうか、頑張ってほしい。

産後の体重の謎。

ここでちょっと言い忘れた事を…

息子を妊娠していた時はよくみんなから「産後は増えた体重が戻らないから、体調が戻ったらエクササイズして体型を戻す努力した方がいいよ。」とか言われた。実際私も、産後すぐのたるんだお腹の皮をどうしたものか悩み、なるべく運動しようなんて思ったりしたが、実際、赤ちゃんと居ると忙しくて毎日ぐったりで、子供が昼寝をしている間は、私のお昼寝時間にもなってしまった。でも以外にも私の体型は割とすぐに元に戻り、体重も妊娠前と同じように戻った。「なーんだ、余裕じゃん。」なんて思っていたのだが…

娘の時も同じように余裕をこいていたら、今度は増えた体重が全く戻らない。それどころか、体重はどんどん増えてしまった。食生活が特別変わった訳でもなかったし、運動量に関しては、子供1人よりも2人の方が自分的には忙しかったような気もするが… 謎だ!

娘が生まれる前にワシントンDC郊外に家を購入した私たち。念願の一軒家をようやく持てて毎日楽しかったが、しかし家を持つとお金がかかる!レンガ造りの古い家は、あちこち改造も必要だった。夫は真面目に働いてくれたが、できるだけ早くローンを返すべく、私は娘が2歳になったのをきっかけにフルタイムの仕事に就いた。

これは全世界のママたちの(パパもか?)深刻な悩みかと思うが、小さい子供が居て仕事に出るとなると、子供預ける問題が発生する。我が家も4歳と2歳をデイケアやシッターさんにお願いするとなると、それにかかるお金と私が稼げる金額を天秤にかけた。私が働く意味があるのかと思う位だったが、幸い義母が平日の数日は子供をみてくれることになったので、甘えてしまった。今から考えると、この時期が私たち家族の経済の暗黒期だったかな、と思う。

家族も少しずつ変化。

しばらく私と弟の嫁はギクシャクしてたので、なるべく会わないようにした。夫の家族は、と言うか、アメリカの一般的な家庭はみんなそうかもだけど、どこかの家に集まってやたらパーティーをする。日本のお正月に匹敵する集まりはないが、大晦日から新年にかけて年越しの集まりはあるし、イースター独立記念日、感謝祭、クリスマス、誕生日、母の日、父の日、高校、大学の卒業パーティーなど、本当に多い。彼女とどうしても会う時もあったが、あれ以来、向こうは私に対してちょっと気を遣うようになったので、私もできるだけ平静を装っていた。

しばらく経って弟と嫁は彼女の浮気がきっかけで離婚した。2人は子供たちの親権で争ったが、弟の飲酒がそもそもの原因だと主張されたらしく、子供たちは彼女に引き取られた。それ以来、義父母はその2人の孫に会うことがなくなってしまった。「2人の間に何があっても、私たちが孫を愛していることに変わりはない。会わせてくれないなんて理不尽だ。」と嘆いていた。本当にそうだと思う。実際、とてもかわいがっていて、弟夫婦も義父母には金銭面もサポートしてもらっている時期もあったし、子供を預かってもらい、自分たちは義父母のキャンピングカーを借りて夏休みを楽しんだりと何かと世話になっていたはずだ。そんな事はどうでもよくなって、元夫の家族、というだけで、憎しみしかないのだろう。なんか、悲しい人間だな、と思った。

変化開始。

うちの息子の4歳の誕生日に家族や友達などをうちに招待して外パーティーをした。弟夫婦も呼んでいた。たくさんの子供たちが遊んでいる中、やんちゃな弟の息子がおもちゃをめぐって幅をきかせ始めた。おもちゃを取られた子が泣き始めた時、弟の嫁はすかさずその子に駆け寄り、「ごめんね。」と。それから自分の子には「そんな事しちゃダメ。」とも言う。だが…たった今、プレゼントとして真新しいおもちゃをもらったばかりのうちの息子がおもちゃを取られても何もしない。私は気づいていたが少し様子を見ていた。そして、うちの子が弟の子から自分のおもちゃを奪い返そうとした時に、うちの子をすごい形相で睨み付けるのを見てしまった。私はもう我慢できずに彼女に、「どうして私や私の子供に対していつも意地悪ばかりするの?家族だからと思っていろいろ我慢してきたけどもうやめる。楽しく過ごしたい日だから帰ってほしい。」と言った。興奮していたのでよくは覚えていないが、大体こんな事をできるだけ彼女だけに聞こえるように言った。せっかくの息子の誕生会なのだ。この場での小さい息子に対しての意地悪は絶対に許さない。彼女は「意地悪なんかしてない。」とか言ったが、私は「帰って。」とだけ言って、その場を離れた。勝手に体と口が動いてしまった。

みんな急に帰って行く弟の家族にびっくりしていた様子だった。一番びっくりしたのは彼女だったろう。私がこんな風に反撃してくるとは思わなかっただろうから。

自分も落ち着くと、こんな事になってみんなに申し訳ないと思ったし、これから家族間でもいろいろ変わっちゃうなと、ぼんやり思った。

 

One in a family

夫の家族でたった1人のアジア人。たった1人だけ英語を流ちょうに話せない。自分の意思を伝えたくても知っている中での言葉から選ぶから満足には伝えられない。こんな人を鼻で笑う人間も世の中にはたくさん居る。私はラッキーにも夫の母と気が合い、祖母にもとても優しくされ、そのおかげで(?)他の人たちともそれなりに仲良く接してもらえていた。私自身が人に対して敏感で、嫌われまいと合わせてしまう性格だったので、会う人会う人、とても慎重になっていた…今から思えば、そんな人ってウザいとは思うけど、残念ながらそんな性格だった。(涙)ただ1人だけこの家族で仲良くなれなかった人物もいた。

夫のすぐ下の弟の嫁は私と初めて会った時からなんとなく私に冷たかった。初めは困惑したが、そのうちにアジア人が嫌いなんだろうと思った。と言うのも、ある日、テレビにアジア人の子供が出ているCMが流れているのを見ると、私の前で差別用語を連発した事があったからだ。彼女は気性が激しくて、義母とも時々衝突していたが、もう1人の義理の妹には何かと気を遣う様子も見せた。要は下手に出るような相手には大きな態度で接し、相手が強そうと思ったら態度を変える。ただそれを私の夫には見せないように小細工もするような奴だった。夫にはそれを話していたが、全く気づいてないようだった。私も我慢してしまう性格なのも悪い所なのだが、会うたびに嫌な思いをしていて、次は何か理由を付けて会わないようにしよう、なんて考えてる自分にも相当嫌気が指していた。

ある日、私の堪忍袋の尾が切れて、いよいよ反撃の時がやって来た。

娘、誕生!

私のお腹の赤ちゃんも順調で、誕生を楽しみにしながら名前を考え始めていた。夫の家族にはしばらく女の赤ちゃんが誕生しておらず、もし、今回が女の子であれば実に義父の姉以来、50数年ぶりだと言われた。「女の子がいいね。」などとみんなから言われるとなんとなくプレッシャーだった。が、夫も私も今度は女の子がいいと思っていた。

義母もこの頃は割と体調も良かったので、予定日が近くなった時の私の身の回りの世話の段取りを考えてくれたりした。予定日は1月。大きいお腹で感謝祭やら、クリスマスやらと忙しい冬を過ごした。時々、もし日本に居てこの状態だったら、私の家族はこんなに良くしてくれたのかな、と考えた。アメリカに実の家族が誰1人居なくても、夫の家族ととてもうまくやれていて、感謝しかなかった。ただ1人を除いては…

そして予定日の1週間前… 息子の時と同じように明け方お腹の張りと痛みをが来て、病院に電話し、義母に電話してすぐに来てもらい、息子をお願いした。今回はすぐ病院に来るように言われ、夫とすぐに向かった。7時間後に元気な女の子が誕生した。待望の女の子でみんな大喜び!娘に蒙古斑はなかった(笑)

夫の両親のこと。義母。

義母は19歳の時に義父と出会い、20歳で私の夫を産んだ。そして次の年には次男を、その次の年にはまた出産予定だったが流産、そして次の年に三男、と、毎年妊娠出産を繰り返し、長男である夫と四男の弟の年の差は、わずか5歳だ。「よく頑張ったねー。」とふざけて私が言うと、「流産した3番目の子さえも男の子だったのよ。今は娘が3人もできてうれしい。」と言ってくれた。

義母は常に入退院を繰り返している人だった。私がアメリカに永住を始めた頃にはもう既にそんな状態だった。退院して帰って来ても、良くて数ヶ月経つとまた入院になった。すごく痩せていて、胃に負担がかかる食べ物は一切食べなかった。ちょっと胃が苦しくなると寝込んでしまったり、ひどいと入院した。でも、なぜか病名が付かず、未だになぜあんなに長い間入退院だったのか、謎だ。義父は「精神の病気だ。」と言ったが、普段は精神を患っている人に見えなかった…ただ、私には優しかったが、同居のおばあちゃんは義父の母親で、彼女とは仲良し、と言うわけではなくて、お互いの愚痴を聞くことも年々増えていた気もする。

義母の家系には大酒飲みがいっぱいいて、彼女がとても苦労したこと、お兄さんがお酒で亡くなっていることなんかを知ったのもこの頃だ。そんな事のトラウマが影響していたのだろうか?